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駐車場を入り参道を進むと、見えてくる本堂の甍。

薬師寺の境内をご案内します。

薬師寺境内案内

駐車場

寺務所

手水舎

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本堂

本堂

明治十年の境内図によると、間口六間・奥行五間の本堂が現在と同じ場所あったようですが、老朽の為、多くの檀信徒の寄進により昭和三十四年一月に現在の本堂が完成しました。木造平屋入母屋造、間口五間・奥行四間に三方庇付屋根は桟瓦葺で、白漆喰壁に黒塗の火灯窓(かとうまど)(花頭窓)がとても佳いアクセントになっています。本尊:不動明王

薬師寺 不動明王

本尊 不動明王

(本堂内の仏様)

大日如来の教令輪身(きょうれいりんじん)である不動明王は、煩悩(ぼんのう)から逃れることの出来ない救い難い者をも力尽くで救うとされ、右手に降魔(ごうま)の剣を持ち業障(ごっしょう)を払い、左手の羂索(けんさく)で煩悩の泥沼から衆生(しゅじょう)を救ってくださる有難い仏様です。

当寺の不動明王は、根本佐右衛門がこの像を背負って常陸国水戸在根本村を離れ、諸国行脚の末に縁あって当地に一寺を建立し本尊として安置したものです。その行脚の途次に佐右衛門の身代わりとして受けたのか、尊像の右腕に刀傷のような痕があり老朽も甚だしく、平成二十九年十月に造立当時の御姿に修復が完了いたしました。像高一尺三寸、寄木造の座像で、眼は玉眼、鎌倉時代の作と思われます。

客仏 不動明王

客仏 不動明王

(本堂内の仏様)

本堂の客仏として外陣(げじん)左側位牌壇(いはいだん)に二童子と共に不動明王(像高三尺)が安置されています。『足立区史』には「宝物に火焰のない不動明王の立像」と記載されています。近年の調査によると左右の手の肘から先の太さが不自然で、何らかの事情で付け替えられたのではないか、元は矜羯羅童子(こんがらどうじ)ではないかとのことです。

脇侍の二童子は、像高一尺六寸、向かって右側が合掌して一心に不動明王を仰ぎ見ている円満相の姿の矜羯羅童子。左側が手に武器を持った瞋恚相の姿の制吒迦童子(せいたかどうじ)です。各々の特徴が見事に表現された室町期以前の作と思われます。

半鐘

本堂正面左側の軒下に吊されているこの半鐘は、宝永六年に住職長晴和尚の発願により鋳造され、後年になって順良(じゅんりょう)の代の延享元年に銘文が加えられたようです。

板碑

本堂外陣右側に一基の板碑が安置されています。現在の本堂建築の際の基礎工事の折に旧本堂下の土中から発掘されたものです。縦二尺三寸横七寸の石板で、傷みがひどく梵字と年号が何とか読み取れます。この辺りは江戸の初期に開発されるまで、低湿地帯で人の居住には適さないと思われていましたが、この板碑の出土により江戸期以前から人の営みがあったことが推察されます。

薬師堂
薬師堂

薬師堂

本堂向かって左側、渡り廊下に繋がって方三間寄棟造りの薬師堂があります。当寺で最も古いお堂です。堂内正面上部の「醫王堂(いおうどう)」の扁額(近年修復)は、江戸期に千住の接骨医名倉家から奉納されたものです。本尊:薬師如来

薬師如来

本尊 薬師如来

(薬師堂内の仏様)

『薬師瑠璃光如来本願功徳経』によれば、薬師如来は東方浄瑠璃世界の教主で、未だ菩薩の時に十二の大願を発し、衆生の疾病を治癒して寿命を延べ、災禍を消去し、衣食などを満足せしめ、かつ仏行を行じては無上菩提の妙果を証らしめんと誓い如来と成ったと説かれています。当寺の本尊は、『新編武蔵風土記稿』に「薬師堂恵心の作れる薬師を安せり」とあります。秘仏として御厨子(おずし)に納められおり、そのお姿を目にすることは出来ません。故に平成二十四年の薬師堂改修工事の折りに、新たに御前立本尊(像高三尺)を建立いたしました。截金(きりかね)が施された見事なお姿です。

日光菩薩 月光菩薩

月光菩薩

日光菩薩 月光菩薩

日光菩薩

日光・月光菩薩

(薬師堂内の仏様)

薬師如来のおられる東方浄瑠璃世界の菩薩様で、日光菩薩(にっこうぼさつ)はその光明をもって世界を照らし諸苦の根源たる無明の闇を滅するとされ、月光菩薩(がっこうぼさつ)は月の如き清涼をもって灼熱の煩悩から救って下さる仏様といわれています。

当寺の両菩薩(像高二尺五寸)は仏像・厨子ともに老朽による傷みが酷かった為、平成二十四年の薬師堂改修工事の折りに、造立当時のお姿に修復され、新調した綺麗な御厨子に安置されています。

十二神将
十二神将

十二神将

(薬師堂内の仏様)

薬師如来の十二大願に応じて十二の時、十二の月、十二の方角を守り、十二支が割り当てられています。天部の護法善神で、薬師を信仰する者を守護する十二の武神であり、各神将にそれぞれ七千の「夜叉(やしゃ)」、総計八万四千の眷属を率いています。当寺の十二神将(像高二尺一寸)は、江戸期に吉田四郎平氏より奉納されたものです。

大黒天

大黒天

(薬師堂内の仏様)

密教の伝来とともに日本に伝わった大黒天は、天部に属する仏教守護神であるとともに財福・豊穣を司る仏様です。初期には真言宗・天台宗で信仰されていましたが、後に大国主命と習合し、現在のように馴染み深い神様になりました。本来のお姿は一面二臂の青黒か黒色で忿怒相(ふんぬそう)で現されていましたが、時を経て頭巾を被り右手に打出の小槌、左手に大きな袋を持ち左肩に背負い、二俵の米俵に乗って微笑したふくよかな翁の姿になりました。 当寺の大黒様(像高四尺)は、本堂建築時の木材の端材を利用して造られました。贅沢にも十四俵の米俵の上に乗っていますので、拝む人々に沢山の御利益があるのではないでしょうか。

大念珠
絵馬
隠れキリシタン

大念珠

(薬師堂内)

 

昭和初期まで村の年中行事であった百万遍大念珠が堂内に掛けられてあります。信者の家々を廻り、念仏を唱えながら念珠を回したようです。後年は大師講(御詠歌講)のお年寄りが寺に集まって行事が続けられていましたが現在は行われていません。

絵馬

(薬師堂内)

堂内の板壁に沢山の絵馬が掲げられ、絵馬堂の趣を醸しています。以前は古く変わった絵馬が数多くありましたが、現在は足立区郷土資料館に寄贈され展示されています。

隠れキリシタン

(薬師堂内)

またお堂正面の納戸の建具には、鍵穴に擬して十字架の形に鍵穴を刳り貫いた金具が取り付けられています。江戸に近いこの辺りにも隠れキリシタンがいて、薬師堂のお参りを装って密かに信仰していたのかもしれません。

境内
薬師寺 山門

山門

薬師寺本堂の真南に山門(薬医門)があります。当寺内の一番古い建築物といわれています。

庚申
庚申塔山門

庚申・長命大師堂

本堂向かって右側に庚申様とお大師様を祀った小さなお堂があります。右側の庚申塔は耳病除けとして信仰され、満願成就には柄杓に穴を空けて奉納する習わしがあります。六臂の青面金剛が邪鬼を踏みつけ、右手に剣や矢を左手に法輪、弓を持っています。側面に「天保十五甲辰七月」と世話人の名前が刻まれています。 左側には長命大師像があり、台石の正面に「四國讃岐國八十二番 長命大師」と刻まれています。

庚申塔(山門前)

庚申信仰の起源は中国の道教思想に由来します。道教では人間の体内には三尸(さんし)という三種類の虫が棲み、人が眠っている間にその人の事を全て天帝に報告に行くので、三尸が体内から抜け出すとされる庚申の日(六十日に一度)の夜は寝てはいけないとされていました。日本では平安貴族の間に「庚申御遊(こうしんぎょゆう)」という詩歌・管弦等の優雅な酒宴で夜を過ごすことが広まり、江戸期には「庚申待」と名前を変えて、庚申の日の夜に人々が集まって徹夜で過ごすという習俗的な民間信仰が一般庶民の間で盛んに行われました。当寺にも前述の庚申塔の他に、門前の右側にも庚申塔があります。笠から台石まで総高七尺ある大きな石塔で、「阿種子庚申塔」として有形民族文化財に指定されています。正面に梵字の阿字が読み取れ、台石に三猿が刻まれています。左側面には次のように刻まれています。

  夫庚申皈依之輩現送三尸之毒虫

  伏仰願一結誦集現當二世得安楽 欽白

  半夜凌□離生死當登三身之蓮臺

三尸説の「送三尸之毒虫」を刻んでいる庚申塔は区内に二基しかなく、また庚申信仰の意味を刻んだものは区内ではこの一基のみだそうです。

修行大師
水子地蔵

修行大師像

網代笠を被り右手に錫杖、左手に鉄鉢を持って、諸国を行脚した弘法大師の修行時代の御姿から修行大師像と云われています。 当寺には弘法大師御生誕千二百年を慶讃して昭和四十八年六月に建立された青銅製の修行大師像が本堂右前にあります。四国八十八ヶ所霊場・西国三十三観音霊場・坂東三十三観音霊場・秩父三十四観音霊場等々巡拝結願を記念したものでもあり、台座にその旨が刻されています。

水子地蔵尊

水子地蔵はとても歴史の浅い仏様で、地蔵菩薩が三途の川の賽の河原で子供の霊を救うということから、一九七〇年代に水子を供養する為に考えられた仏様です。 当寺でも流産や死産等この世に生を受けることなく旅立った哀れな水子を供養する為に、弘法大師千百五十年御遠忌(ごおんき)を記念して建立されました。

みちびき

みちびき地蔵尊

墓域の西側に石彫の地蔵尊がお寺を見守るように立っておられます。墓地の区画整理を行った際、多くの無縁の墓石があり、一カ所に集めて「無縁塔」を建立し、石彫家八柳五兵衛氏に制作を依頼した地蔵尊をその中心に据えて「みちびき地蔵」と名付けました。またその折りに先代住職順正和尚の師僧、北区滝野川金剛寺の哲信和尚が和讃を寄せて下さいました。

みちびき地蔵尊和讃

心のねがいそれぞれに かなえてあますところなし

くめどもつきぬおんなさけ 南無やみちびき地蔵尊

右に錫杖うちふりて 迷いの夢をおどろかし

よろずの功徳授けんと 宝の珠をひだり手に

ほほえみたもうおんすがた 南無やみちびき地蔵尊

墓地

墓地

整頓された桶置場と水場、花壇を抜けると墓域が拡がり、本堂の西側に位置して歴代住職の墓所があります。歴代住職の墓石が右から古い順に並んでいます。この歴代住職の墓所の中には向かって右側に助左衛門夫婦の墓石が歴代住職の墓石と並んであります。助左衛門の寄進した田畑が薬師寺にとってどれだけ有難かったかが窺い知れます。

喫茶去

喫茶去

興教大師(こうぎょうだいし)八百五十年御遠忌を記念して建設された休憩所です。正面入り口の扁額に「喫茶去(きっさこ)」と記されています。喫茶去とは、「お茶を一服如何ですか」と云う意味の禅語です。このような施設のある寺院は極めて希で、檀信徒の皆さんが墓参の折に一休み出来るように湯茶・菓子等を常備しています。行事の時には受付所としても利用されています。

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