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創建

『新編武蔵風土記稿』には「薬師寺、新義真言宗、本木吉祥院門徒、寳珠山普門院と号す、本尊不動を安す、薬師堂恵心の作れる薬師を安せり」とあり、創建の記述はありません。創建に関する正確な時期を記した古文書等の資料はありませんが、昭和二十七年に都知事に提出した宗教法人報告書には沿革について「当寺は真言宗総本山長谷寺末にして寳珠山普門院と号し、不動明王を本尊とす。而して当寺の開基は寛永九年四月賢明法印の手になる。賢明法印未だ齢小にして、武蔵国淵江領千住安養院に役僧を務めし折、常陸国水戸在根本村の根本佐右衛門氏が其の子孫の廃へたるを悲しみ、且つは先祖に申し訳なしとの一念、先祖の菩提の為に佐右衛門夫妻は根本家伝来の守護仏たる不動明王(作者不明)を背負いて諸国を巡行し、遂にこの地に辿り着き、一夜賢明と語り、其の不動明王を賢明に寄進せられ、伊藤谷村の無寺を知り、師に諮りて此の地に佐右衛門と共に一寺を建立し、不動明王を本尊とせるを以て不動院と名付く、而して佐右衛門は寺の傍らに居住し賢明と共に仏道に精進せり。後に近隣に同院号有せる寺二、三を数える為、且つは当地に薬師如来を安置せる一仏堂あり、これを当寺の附属堂とせるを以て、其の名を受けて此処に薬師寺と改めたり」とあります。

薬師寺

根本家墓所内の佐右衛門の墓

伝承

『週刊てんおんー水戸風土誌』(水戸市宮町 天恩商事発行)昭和四十四年一月十二日発行に星山義孝氏が「知られない黄門遺跡」と題する一文を寄せ当寺のことを概略次のように紹介しています。

「関ヶ原の戦いで西軍に味方した佐竹義宣は常陸水戸五十四万石を徳川家康に没収され、秋田二十万石の地に国替えになった時、重代恩顧の佐竹家の家臣領民は、これに強く反発し、藩主に従って秋田に移った者、弓矢を捨て帰農した者、前途を悲観して他国へ移り住む者が続出した。根本佐右衛門は慶長七年(一六〇二)に領主と離別し、住み慣れた常陸国那珂郡下根本村(現在の大宮町根本)を離れ、根本家に重代伝わる不動明王を背負い家族を伴い綾瀬川の畔まで辿り着いた時、背負っていた不動明王が俄に重くなり一歩も動けなくなったので、此の地に菴を結び暮らすことになった。佐右衛門は安住の地を得た喜びを謝し、慶長九年(一六〇四)お堂を建て不動院と称した。薬師寺の寺号については、水戸光圀が上府の折、綾瀬川に架かる水戸橋近辺にて眼に塵が入り痛んでいたところ、近くにあった不動院の薬師堂をお参りして痛みが取れ眼が治り喜んだ光圀公のお声掛かりにより薬師寺と名を改めたのである」

 星山義孝氏が当寺を訪ね、当時の住職から伝承を聞き、このように薬師寺創建の由来をまとめられたそうです。創建の時期が寛永九年と慶長九年の違いはありますが根本佐右衞門が常陸国を離れた情況等、大変説得力のある興味深い記述であります。

関ヶ原合戦図屏風

関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)

助左衛門の寄進

薬師寺には本堂の御本尊様の傍らに安置し、代々大切に供養している大きな位牌(一尺七寸)があります。

薬師寺では収穫された米を「助左衛門のお米」といって、昔は庫裏の脇にあった倉に納め、8月21日の施餓鬼会(現在は5月21日)にセガキ米として村内の人々に施し助左衛門の供養をしていたようです。

位牌の裏に助左衛門には子供がいなかったこと、田畑を寄付したことが記されていますが、薬師寺の『御検地水帳之写』によりますと、当時の住職長晴(ちょうせい)和尚は助左衛門の子供であったようです。この『御検地水帳之写』は吉田四郎平氏が保管していたものを当寺が譲り受けたものです。田畑の面積と所在が詳細に記されてあります。また「拙僧親助左衛門」と記されていることから、助左衛門には仏門に入った長晴以外に子供がいなかったのでしょう。

『御検地水帳之写』に「中興長晴」とあることから、この田畑は薬師寺を維持していく上で重きをなしたものと想像されます。 現在、助左衛門夫婦のお墓は、歴代住職の墓域内にあり、長晴と共に安らかに眠っています。

明治期の薬師寺

明治初期の当寺を知る資料として、明治十年の『真言宗明細簿』(東京都公文書館蔵)があります。

武蔵国足立郡伊藤谷村四番地

武蔵国足立郡本木村

中本寺吉祥院門徒    真言宗新義派 薬師寺

開基 不分明

寛永十九年四月 賢晴開山

一 檀家          五拾一戸

このように『真言宗明細簿』では、創建年が寛永十九年、開山は賢晴とあり、前述した『宗教法人報告書』にある寛永九年と開山は賢明と各々相違しています。

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