薬師寺の宗旨
当寺が属する真言宗豊山派は、宗祖(しゅうそ)弘法大師(こうぼうだいし)、中興祖(ちゅうこうそ)興教大師(こうぎょうだいし)、派祖(はそ)専誉僧正(せんよそうじょう)とし、奈良県桜井市の長谷寺(はせでら)(正式には豊山神楽院長谷寺(ぶさんかぐらいんはせでら))を総本山、東京都文京区の護国寺(ごこくじ)(正式には神齢山悉地院護国寺(しんれいざんしっちいんごこくじ))を大本山としております。
真言宗豊山派の歴史
真言密教は、大乗仏教(だいじょうぶっきょう)の大成として七世紀頃のインドに始まり、やがて中国に伝わり体系化されたと伝えられています。延暦二十三年(八〇四)に空海(後の弘法大師)が遣唐使藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)に従って遣唐使節の一員として唐に渡り、長安の青龍寺(しょうりゅうじ)にて恵果阿闍梨(けいかあじゃり)から真言密教の奥義を授かり、我が国に請来(しょうらい)して真言宗を開創しました。平安末期には興教大師が宗風を中興し、鎌倉期には頼瑜(らいゆ)僧正によって新義真言宗が大成し、天正十三年(一五八五)豊臣秀吉の根来寺(ねごろじ)(和歌山県岩出市)焼き討ちにより堂宇二千七百余が灰燼に帰し、為に多くの僧侶が根来を離れ、天正十六年(一五八八)に専誉僧正が豊山長谷寺に登り、爾来その法灯を伝えて今日に至っています。真言宗豊山派の豊山派という派名は、豊山長谷寺の山号「豊山」に由来します。
護国寺は、江戸時代の天和元年(一六八一)、五代将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)の生母桂昌院(けいしょういん)の発願により亮賢(りょうけん)僧正を招き、桂昌院の念持仏である天然琥珀の如意輪観世音菩薩を本尊として開山されました。
真言宗豊山派の教え
『大日経(だいにちきょう)』と『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』の両部の大経を所依の経典として真言の秘法により凡聖不二(ぼんしょうふに)・即事而真(そくじにしん)の妙理によって仏果を即身に証得し、仏国をこの世に開顕することをもって教義の大要とします。
平易に表現すると、『手に仏の印契を結び、口に真言を唱え、心に仏を観じる「三密加持(さんみつかじ)」を行えば、我々衆生と仏とは本来同一「凡聖不二」であり、現象がそのまま真理「即事而真」であるという理(ことわり)により、即身成仏(そくしんじょうぶつ・この身このままで仏になる)することができ、この世を仏国土にする』となります。
薬師寺の在り方
檀信徒の皆さんが菩提寺に求める事は何でしょうか。自宅で葬儀が行われなくなり、葬儀社の会館や火葬場の斎場での葬儀が殆どになりました。喪主をされる方も亡くなった方の夫や妻、その子供が当たり前ではなくなり、亡くなった方の兄弟姉妹や甥姪が喪主を勤められる事が多くなりました。個人より家や家名を大切にした戦前であれば、家代々の墓が無縁になる事も少なかったのですが、戦後の自由主義による価値観の多様化により家の宗教から個人の宗教に変わりつつあります。宗教行為必修の寺院境内墓地の霊園化、寺院によるペット葬や樹木葬も珍しくありません。
最近の新聞に『「顔も知らない先祖より」お墓ペットと一緒』(毎日新聞)という記事を目にして考えさせられました。当然、薬師寺もこれからの寺の在るべき姿を模索してまいりましたが、住職を数十年勤めてきた中で、出来得る限り昔ながらの寺らしい寺で在り続けようと思っています。
薬師寺の供養
「遺族に負担をかけたくない」という考え方や葬儀社の現代のニーズに合わせた種々の提案、式を司る僧侶の迎合が葬儀の簡略化を加速させていますが、当寺は簡略化とは無縁でいたいと思っています。
親戚の通夜に行ったら30分で僧侶の読経が終わってしまったという経験はありませんか。葬儀に行ったら火葬場に僧侶が来てくれない。食事の席にも着かずに帰ってしまった。法話をしてくれない。自分の寺には木魚があるのに本山に木魚が無い事を言い訳に通夜や葬儀に木魚を使わない。本来葬儀を勤める僧侶が持参すべき御香や仏具を当たり前のように持参せずに葬儀社に用意させて威張っている。
こうした現況に疑問を感じ、薬師寺では必ず通夜には1時間読経をいたします。真言宗の大切なお経『理趣経』を一字一句略す事なくお唱えする為です。葬儀では懇切丁寧に故人に引導を授けます。初七日忌の法要は希望があれば初七日に自宅に伺って、通常でも葬儀の式中ではなく火葬収骨後に行っています。通夜と法事にはご詠歌もお唱えします。法話も時間のある限りは行っております。永年に渡り薬師寺を支えてくれているお檀家さんの葬儀や法事を一所懸命に行う事は、菩提寺の住職として当たり前の事と思っているからです。